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2024年10月20日・年間第29主日(B)

イザヤ53.10-11/詩編33.4+5,14+15,20+21/ヘブライ4.14-16/マルコ10.35-45

先週、私たちは、誰もが経験する、物質的なものや夢への執着を捨て去る事の難しさについて、共に黙想しました。「この世」での便利で(なんとなく)安心できる生活への欲望に深く根付き、イエス様の使命という奉仕に積極的に参加したり、その中でも特に神さまに信頼するこころを持つことへの妨げとなる、これらのいわゆる執着というものを、私たちはたくさん見つけてきました。今日の黙想のポイントは、私たちがこれまでに深く黙想してきたことと、それほど違いはありません。

 

本当の弟子になるということは、信仰(信仰と神さまへの信頼)の深い生活と、奉仕を通しての隣人たちへの愛を意味しています。本当の弟子になるということの本質は私たち一人一人の洗礼の源と礎がイエス様の洗礼であることを自覚することによって、より深く理解することができます。本当の弟子になるということは、イエス様の偉大さを、正しく理解することなのです。

 

イエス様の洗礼は、神さまの救いのご計画に対する忠実さと決意の証しとなるものです。同時に、イエス様の洗礼は、最終的に十字架へと導かれるイエス様の使命の始まりでした。イエス様ご自身の洗礼以前に、洗礼者聖ヨハネは、人々に悔い改める事を説き、水によって洗礼を授けていました。ですから、イエス様の洗礼は、誓いと証しの洗礼としても理解されています。イエス様は、正義に満ち溢れた洗礼をお受けになりました。イエス様の洗礼は、悔い改めを人々に説いた洗礼者聖ヨハネの本質と使命を、はっきりと示しました。洗礼者ヨハネは、「私よりも優れた方が、後から来られる。その方は、聖霊と火によって洗礼を授けられる。」(マルコ1.7-8)と語っています。

 

ガリラヤでのイエス様の宣教のための準備として、イエス様は、ヨルダン川での出来事の直後に、砂漠へと向かわれました。イエス様は、砂漠で40日間の断食と空腹の中に身を置かれましたが、誘惑に負ける事はありませんでした。

 

イエス様は、私たちの誘惑と弱さをよくご存じです。私たちが自分たちの弱さやこの世の欲望や誘惑に負ける事のないよう、絶え間なく祈り続けましょう。

 

イエス様の洗礼は、謙虚さの洗礼です。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。(マルコ10.45参照)このことから、私たちは本当の偉大さの意味について学び、明確にします。あなたがたの中で偉くなりたい者は誰でも、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は誰でも、すべての人の僕になりなさい(マルコ10.43-44参照)。