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2024年10月6日・年間第27主日(B)

創世記2.18-24/詩編2+3a,3b+5+6a/ヘブライ2.9-11/マルコ10.2-16

今日、私たちは社会や教会内でも、とても限られた、デリケートな事柄に直面することになります。離婚に関する疑問は、ファリサイ派の人々が、離婚する事は律法にかなっているのかという質問を投げかけたイエス様の時代においてさえも、物議をかもすものでした。これに対して、イエス様は、(旧約聖書に書いてある通り)モーセは、人々の心が頑固なので、夫が離縁状を書けば妻と別れる事が許されると定めた事を説明されました。イエス様は、さらに、男は自分の両親を離れて、妻と結ばれて一体となる事について説明されました。彼と、彼と結ばれた妻は、もはや一人ひとりはなく、一体となります。現在の教会での生活において、私たちは、結婚の秘跡として、イエス様のお考えを理解しています。

 

確かに、離婚するという事は、特に私たちキリスト者にとって、多くの痛みを伴う現実のひとつです。さらに、現代では、国の法律上の離婚が、今とても便利で簡単なものとなっているので、長期にわたる争いの程度も小さなものとなってきています。

 

どうして生涯をかけた結婚に対して、法律的な別居や離婚を決意する夫婦が増え続けているのかという事に関して、私たちは皆、もっと誠実で素直に向き合うようにと召されています。結婚の尊厳についての、この時宜にかなった黙想が、裁くためではなく救いのために来られた、イエス様の癒しのいつくしみを源とすることができますように。イエス様によって創られた教会の一員として、結婚の尊厳を皆に広く伝えていくという責任を、今ふたたび新たに致しましょう。結婚をしようとしている男女は、結婚という事を広く理解するための結婚講座を必ず受けるようにと、教会は主張し続けていますが、結婚生活において何が起こるのかは、だれにもわかりません。どんなに夫婦関係を保ち続けたいと思っていても、私たちは、結婚という繋がりが問題を引き起こすという現実と真実に直面しなくてはなりません。結婚をした後も、教会が彼らに対して、結婚生活の長い既婚者夫婦による手助けや支援や助言というフォローアップをするという事は重要ではありません。夫婦が自ら、助言や支援を探し求めるほどに、謙虚でなければならないのです。

 

ですから、私たちは、最近、見つける事がもっと難しくなりつつある謙虚さや犠牲や献身を、皆一人ひとりが見つけ出すことができるようにと、祈り続けましょう。また、法律的な結婚をしていても、彼らの生活が完全にばらばらに離れてしまっている夫婦のためにも祈りましょう。