イザヤ50.5-9a/詩編116.1+2+3+4,5+6a+7b,8ab+9/ヤコブ2.14-18/マルコ8.27-35
先週の日曜日には「信仰に従って行動する」という神さまからの呼びかけについて、すでに話 しました。この具体的な呼びかけは、私たちの主であるイエス様の正義と、貧しい人や病気の人 に対するイエス様の心配りに倣うという幅広い呼びかけから発しています。私たちは、自分のた めの活動や仕事で忙しくて、正義と心配りを必要としている人々が置き去りにされている事を理 解して、イエス様のように行動する(イエス様に倣い、イエス様の御こころを深く理解するために、もっと勇気付けられます。今日の朗読の黙想のポイントは、私たちがすでに持っている信仰をしっかりとしたものにするようにと私たちを駆り立てる、とにかく力強い言葉によってさら に強調されています。
イエス様は、救い主としてのイエス様を完全に受け入れるようにと弟子たちを勇気付けられると 同時に、真にイエス様の後に従う時、犠牲を伴うという事の念を押されました。イエス様は、 「私の後に従いたい者は誰でも、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。
自分 の命を救いたいと思う者は、誰でもそれを失うが、しかし、私のため、また福音のために命を失 う者は、誰でもそれを救うのである。」と弟子たちにお話になる事で、彼らに勇気と挑戦するこ ころをお与えになりました。これらのイエス様のみことばは、現代の私たち一人ひとり、そし て、皆がより良いキリスト者としての生き方を毎日送る事ができるようにと、真に挑戦していく ための的確な言葉です。ですから、皆でなくても、私たちのほとんどは、私たちの主であるイエ ス様に従う事で求められる犠牲を伴って「私」が生き続けられる限度について、自分自身に問い かけがちになるかもしれません。しばしば、私たちは誘惑を受ける事だけではなく、例えば、働 き/活動を通して示される「信仰する」 (信仰を持つ)という事で、私たちは、自分たちの労力 と時間をどのくらい犠牲にするのか、いろいろな種類の限界を定めます。明確な限界を決めると いう事は、多分、この世の出来事に関して、自分を守るという本能への各々の自然な欲求/傾向 から来ているものです。
少なくとも、私たちは、今日の第1朗読のイザヤの預言から、ひとつの大切なポイントを得る事 ができます。神さまは、いつも私たちの味方でいて下さり、決して私たちに恵みをお与えになら ない事はなく、私たちを苦難から必ずお守りくださいます。なぜなら、私たちは、自分たち自身 の事ではなく、イエス様とイエス様の愛/寛大さの教えを、一番に宣べ伝えているからです。キ リスト者としての生き方に必要な犠牲する事の価値を、喜んで受け入れるための別の美しい言葉として、これらの言葉を受け止めましょう。
犠牲するという事の価値を、現代の時代遅れで昔ながらの生き方と見なすことがありませんよう に。私たちの信仰をもっと意味のあるものとしてくれる信仰生活を送るために必要な犠牲を、私 たちが大切にして生きる事ができますように。
使徒ヤコブの手紙 (今日の第2朗読) にあるように、行いが伴う信仰を深める事について、もっ と黙想しましょう。どんなに大きな犠牲が必要とされていても、行いによってよく表されている信仰のうちに、完全に生きるための十分な勇気を持ちましょう。