· 

2024年9月01日・年間第22主日(B)

申命記4.1-2,6-8/詩編15.1+2,3+4a+6/ヤコブ1.17-18,21b-22,27/マルコ7.1-8,14-15,21-23

神さまの御ことばと聞く機会を持つという事は、そして、さらにもっと注意深く、もっとじっくりと聞くことができるという事は、私たち一人ひとりが神さまからいただく事ができる大いなる恵みです。神さまの御ことばは、確かにたくさんの、そしていろいろな形で、私たちのもとに存在します。神さまの御ことばには、特に、例えば旧約聖書に書かれている神さまの御ことばには、神さまからの掟の啓示や信条が豊富にあります。神の民は、これらに従います。神さまのご意向に従い、一方では、神さまからの罰にも従うのです。今日の私たちの黙想では、神さまからの掟の啓示や信条に、これから先も黙想していくようにと招かれている一方で、イエス様が新約聖書の中で教えて下さっているように、どうやって「旧約聖書」に書かれている事をもっとよく理解するのかという事を、さらに深く考えるようにと招かれています。

 

律法学者や、法律学者、ファリサイ派の人々は「モーセの掟」について細かいところまでも詳しく知っていると、しばしば広言していましたが、ほとんどの場合、イエス様とイエス様の教えの基を攻撃していました。私たちは、マルコの福音書の初めの方の章を読み返すことで、当時のイエス様の置かれていた立場を、よく理解することができます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5.17参照)

 

今日の朗読からのチャレンジは、キリスト者の生活をどのように理解し、どのようにその指針にそって生きていくのか、正直に見直し、判断していくのかという事です。弟子たちを含むイエス様のまわりに集まっている人々が、イエス様がおっしゃろうとされている事とそのご説明の大切な部分を逃してしまっている事を、幾度にも渡って、福音書では述べられています。ですから、現代の私たちは、私たち人間が出来得る限りの限られた/制約された範囲の中で集めた情報/知識を基にして、広い理解をしています。私たちは、基本的に、はっきりと目にしたものや耳にしたものや、身体的に経験したものを基にして理解します。時々、自分たちが大切な部分を逃してしまってはいないかどうか、自分自身に問いただす事は、私たちの助けとなるでしょう。私たちは、大切な部分を逃しているという事に気付いた時に、イエス様にものの見方や考え方を見直すことができるようにと請い願います。

 

私たちは、イエス様の本意から離れてしまう事をお許しにならない事を、イエス様に感謝しています。私たちが、今から、神さまの掟をもっとよく理解することができますように。イエス様を中心とした生き方によって、私たちが、イエス様の掟と信条で満たされている事を実感することができますように。