· 

2024年8月18日・年間第20主日(B)

箴言9.1-6/詩編145.10+11,13ab+14,15+16/エフェソ5.15-20/ヨハネ6.51-58

確かに、キリスト者の生活を、どのように生きるのかという事について、そのための知識の不足/欠乏を満たすためのたくさんの方法の中のひとつに、私たちが日々の人生経験を、同じ信仰と同じ価値観を持っている人々と分かち合という方法もあります。基本的な方法は、私たちが隣人から学び、隣人たちもまた私たちから学ぶというものです。私たちとは違う信仰をもっている人々と分かち合う事によっても、また私たちは、心を広げ/伸ばす事ができます。先週は、私たちの信仰とキリスト者としての価値を失う寸前で救われた私たち一人ひとりの経験/瞬間を、他の人と分かち合うようにと勇気付けられ/招かれました。これに似たような招きに応えるという事は、実際に本当のキリスト者としての生き方を知り、更に学ぶというもう一つの方法です。

 

今日の私たちは、今もなお「天からの生きたパン」についての一連の朗読と説教のうちにあります。この時、私たちは同時に、「天からの生きたパン」であられるイエス様が、天国での永遠のいのちを約束された御からだと御血を通して、永遠のいのちをお与えくださると言い渡された事を理解するようになります...「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」ここで、まず一番に今日の第一朗読からのメッセージからの招待や呼びかけなどについて、よく考えましょう。この朗読では、単純(情報不足)で無分別と見なされる愚かさを捨て去る事について述べられています。そうする事で、私たちは、理解するという生き方を受け入れるための勇気を持つでしょう。例えば、ご聖体の秘跡は、私たちの日々の生活の中で、教室での話し合いによって、その意味を適切で単純に見つけることができるといったものではありません。ですから、今日の箴言からの朗読は、浅はかな理解と無意味な話し合いに対する知恵を手に入れる事を教えてくれています。

 

つまり、今日の私たち一人ひとりへの基本的な招きは、いかに賢く生きるかという事を黙想する事です...もしかしたら、もっと賢く!? 私たちがこのように招かれている一方で、同時に、霊的に生きるようにとも招かれています。聖パウロは、エフェソの教会の人々に、愚かな者としてではなく、神さまの彼らへの御心が何であるのかを悟るようにと励ましています。肉体的、性的な悦びのうちにある過度な楽しみは、霊的な生き方を破壊します。エフェソの教会の人々は、詩編と賛歌と霊的な歌を通して、それ以上に共同体として勇気づけられました。

例え、今日までに、私たちが夢中になっている事を、一見楽しんでいるように見えても、最終的には、私たちが空っぽであるという事、私たちの人生が意味のないものである事に気付きます。ですから、私たち皆は、「いのちを与えるパン」に、もう一度私たちのこころと精神を向けて、キリストを中心にして、イエス様のもとに集まり続けるように招かれているのです。