マラキ1.14b-2、2b、8-10 ・ 詩編 131.1+2ab、2cd+3 ・ テサロニケ1 2:7b-9、13・マタイ 23:1-12
イエス様は私たちの偉大なる、ただおひとりの師であり先導者。
私たちに教え、私たちにも先導できるように導いてくださる方
私たちは、マタイの福音朗読を通して、イエス様とファリサイ派の人びととの間での確執について学んできました。イエス様が地上におられた時の宗教的先導者たちの考え方や行いは、とても傲慢で偽善に満ちていました。今日の私たちの典礼のテーマは、教会での統率力についての正直な振り返りへと、私たちを立ち戻らせてくれるものです。
すべての教会の先導者たちが説いている教えを、先導者たち自身が実践することができるよう、皆で祈りましょう。皆の模範として導くことは、統率力のとても重要な一面/観点です。時が経つにつれて、先導者たちが自信を持って、あるいは、多少傲慢に先導している事を、自分では実践しなくなるという問題が繰り返されるようになります。
この問題についてもっと深く考えてみると、一見繰り返されているように思われるこの問題は、私たちが教会の先導者と考えている叙階された司祭たちや司教様、カテキスタ、そして、小教区の教会委員会の委員たちの特定の/特有の権威の弱点に限られたものではないことに気づくかもしれません。私たち一人ひとりの洗礼によってキリスト者である私たち皆が、言葉と模範によって導くようにと召されています。私たちは皆、真の信仰を持ち、皆の模範になって導くことで、私たちのそれぞれの祈りの生活を育てるように、言ってみれば、私たち一人ひとりとイエス様との繋がりを深めていくようにと召されているのです。これは、キリスト者としての生き方をする上で、たくさんある課題のひとつです。
私たち皆が召されている統率力について、よく考えてみましょう。
統率力は、私たちが受けることのできる恵みであり、素晴らしい賜物です。私の最愛なる兄弟姉妹のみなさん、私たちはたくさんの様々な方法で導くことができます。私たちの小教区は、みなさん一人ひとりの統率力を必要としています。皆で、すべての人々に対して奉仕する使命を果たしていきましょう。恐れることはありません。私たちには、私たちにも先導できるように導いて下さる最も偉大なる先導者、イエス様がおられるのですから。
私たちが特定の人々に託した全ての肩書、私たちを導くために定められた地位、そして、熟練した技術で施された素晴らしい刺繍の祭服が、神聖な責務と先導力の表れと象徴としてあり続けますように。私たち皆が大切であると考えているこれらすべての事が、人々に対して奉仕するという使命を先導者がもっと実践して、私たち皆がイエス様との繋がりをさらに深めていくために、文字通り必要な事となりますように。