イザヤ25:6-10、詩編23:2+3、5、6、フィリピ4:12-14、19-20、マタイ22:1-14
自己満足しているクリスチャンと熱心なクリスチャンたち
神さまの王国への旅
今日の聖書朗読も、天の国とは何なのかについて説明がなされています。天の国は、真の充実と幸せを保障できないことへのたくさんの懸念と不安に人々が縛られている状態とは矛盾しているものとして、説明されることがよくあります。ですから、今日の朗読では、私たち皆に対して、神さまが準備されているすばらしいものを思い起こさせてくれます。これらのすばらしいものは、世の中が与えることのできるものを遥かに超えているに違いありません。神さまの招きとは、真の充実と幸せの保証ができる物事や生き方を私たちがもっとよく知るために、ただ神さまに向かって進み、聴くことです。この招きとは、私たちに準備されたものを受け取るに値する者になることなのです。
天の国は、婚宴として描かれています。私たちは皆、この結婚の祝宴に出席するようにと招かれています。この祝宴に私たち皆が出席する時、聖なる生き方をするという同じ招きに応えているすべての他の人々と共に、私たちは聖なる生き方をお祝いします。
一般的な現代社会において、多くの人々はクリスチャンの生活にあまり関心を持たないようにみえますし、何人かの他の人々は、単に無関心であるようにみえるかもしれません。けれども、私たちは、神さまの招きが「開かれた招き」であることを理解しています。福音朗読では、王さまは、最終的にすべての人々のために招きを広げています。
私たちには、教会と呼ばれるものがあります!
私たちの教会は、今もこれから先も、真に献身的なクリスチャンである人々と、クリスチャン生活に自己満足している人々によって成り立っています。何人かの人々は、教会の中で、誰が聖人たちのように生活しているか、誰がいつも罪のうちに生活しているのか、疑問に思ったり問いただすかもしれません。しかし、私たちは、一体誰が聖人で誰が罪びとなのかと考えるために、多くの時間を費やすことはしません。教会の中では、エリートグループや教養があり礼儀正しいグループ(熱心なクリスチャン?)といったグループを作ってしまうように、最上級クラスや二級クラスを作り出すという絶え間ない誘惑がいつもあります。カトリック教会の一員として、神聖さへの神さまからの呼びかけ(招き)の普遍的な本質を持ち続けるために、私たち一人ひとりにとってもっと大切なことは、いつもすべてを受け入れる事です。天の国への神さまの招きは「開かれた招き」ですが、回心は、関心を持っている人すべてに対して、いつも求められています。
この現代の世界の私たちの教会は、まぎれもなく、祈りのために時間を費やせる場所であり、私たちがこの世の中で手に入れられる物質的なものよりももっと素晴らしい、神さまが私たちのために準備して下さったものについて黙想できる場所です。さらに、私たちの教会は、喜びや希望、そして、私たちがキリストのうちに生きていく上で、どういうわけか日々経験する痛み、悲しみ、不安でさえも、他の人々と分かち合える場所でもあります。教会は、いつも私たち一人ひとりに対して、教会の心に近づくようにと呼びかけています。教会は、すでに私たち一人ひとりが回心する可能性を持っていて、神さまのお恵みが溢れ出る場所であり、奇跡が起こる場所なのです。
ですから、私たち教会は、教会の中で真に起こり得る回心を否定することはできません。神さまからの招きはもうすでに成されているので、いつも私たちは、自分たちの扉を素早く開けなおすことを迫られています。未だに再び開かれた扉から中に入ることに関心のない人々がいるかもしれませんが、私たちが神さまの王国に入る時、誰も取り残されないようにと、私たちはいつも願っています。つまり、教会は、天の国での生活に値するように、一人ひとりの回心を先頭に立って導いているのです。