イザヤ56.1,6-7・詩編67. 2+3, 4;5, 7+8・ローマ11.13-15, 29-32;・マタイ15.21-28
イエス様は、すべての人のことを気にかけて下さる
だれもお見捨てにはならない
今日の朗読では、私たちの日常生活の中での事がどんなに矛盾するように見えても、神さまの愛といつくしみ、お導きと摂理のうちに、私たちは、信頼と確信をもっと強く持つようにと求められています。私たちの共通であり個々でもあり、独特な経験である世界の現実は、一見、見捨てられたように思われるかもしれませんし、私たちのことを気にかけて下さる神さま(思いやりのある神さま)を信じる事を妨げているかもしれません。おそらくさまざまな形で現れる避けられない病気や、人間の過ちや自然災害のために起こる事故に対して、どのように、そして、なぜ、神さまはこのような世界を容認され、なぜ、神さまはこのように多くの人々が苦しむのを差し許されるのか、絶え間ない疑問が出てきます。
このような疑問は残り、答えられないように思われるかもしれませんが、私たちの疑問は、信仰と忍耐(祈りのうちの忍耐)です。祈りのうちの忍耐とは、私たちが求めるものを持っていることよりも、神さまが私たちに求められているもの(私たちにとって本当に最良のもの)を、はっきりと知るための助けを求める純粋で正直な心を持っていることだということをよく理解しましょう。私たちの望みは、神さまの御旨との一致による平和と健康です。
今日の福音朗読では、おそらく2つの異なった重要なポイントでの会話が見られます。1つは、カナンの女性とイエス様との会話で、信仰と忍耐の重要性と、そして、すべての人に気をかけてくださるイエス様への完全な信頼についての教えが強調されています。ですから、イエス様は少数の選ばれた人々、集団、または共同体に対してのみ気をかけて下さるのではないという事を、ここで断言できます。これは、イエス様がイスラエルの失われた羊のところにだけ遣わされたと、弟子たちに宣言されたことと矛盾しています。イエス様は、カナンの女性にも直接似たようなことを、再度宣言されました。けれども、カナンの女性はイエス様への確信と完全な信頼のゆえに、決してあきらめませんでした。イエス様が真にどなたであるかを知っているカナンの女性は、初めは一見矛盾した宣言がなされた理由を、弟子たちにも明らかにしたに違いありません。ここで、私たちは、今日の典礼のもう一つの重要なポイントを理解するようにと導かれており、そして、私たちが与るようにと呼びかけられています。
もう一つの重要なポイントは、イエス様の弟子たちとイエス様ご自身との間の短いけれども、心にうったえかけてくる会話の中に見つけることができます。重要な点は、みことばを世界に宣べ伝えることを弟子たちに任せる必要性にあります。イエス様は、一見受け身的で、カナンの女性についての弟子たちの即座の判断とも矛盾せず、ただ、「私は、イスラエルの失われた羊のところにだけに遣わされていない」お答えになりました。イエス様は、ご自身がはっきりと言われたみことばを超えた何かをおっしゃっているに違いありません。そして、弟子たちとカナンの女性にもわかるようにと、もう一つの重要なポイントをおっしゃっているに違いありません。
弟子たちは、彼ら自身が、特に時空において、そして、まだ想像もできないような場所や状態において、使命の一部にも属さないと思われる人々のために遣わされるようにと召されている事を理解する必要がありました。カナンの女性の背景と彼女の娘の癒しの懇願を含む彼女の存在は、イエス様の弟子たちが、将来、イエス様の司牧活動と使命を共に行っていくことに対して、そして、罪のゆるし、癒し、国々の間での和解に対して、よく考える必要があった状況の一例に成り得ます。
ですから、私たちも、イエス様をもっと知り続けて、イエス様の基盤となる環境と使命をもっと理解するようにと召されているのです。私たちは、イエス様のすべての人を受け入れようとされる御心(すべての人の事を思いやる心)の鼓舞に耳をかたむけるようにと求められています。忍耐のうちに祈り、私たちの世界の現実についてイエス様が私たちに話しておられることに対して、熱心に耳をかたむけましょう。イエス様が、あなたと私を含むすべての人々を愛することをお選びになり、そして、イエス様が私たちに望んでおられることは私たちにとって最良のものであるということを、イエス様がおっしゃるのを私たちが耳にするまで、イエス様のみことばをもっと聞きましょう...。その時まで、行くべきところに行き、成すべきことを成す勇気をもっと持ちましょう。