みなさん、ご復活おめでとうございます。
神さまの豊かなお恵みは、私たちのように救い主であるイエス様を信じる人々にとって、栄光への入口としての十字架のイメージを思い描くよう導いてくださいます。私たちは皆、イエス様の栄光(ご復活)に入ることで、信仰の本当の意味を見つけるのです。確かに、私たちの信仰はイエス様のご復活に深く根ざしています。一度は逮捕されることを恐れて沈黙し、弱腰になっていたイエス様の弟子たちは、心を完全に入れ替えて、イエス様が復活されて彼らと共におられたことを証しし始めます。私たちも、私たちの時代においても、イエス様が復活された生涯に深く根差した信仰を真に分かち合うようにと招かれています。私たちが信じて証しし、信じている事と証ししている事を行動するのです。
私たちは、ご復活のお祝いが一度だけのお祝いではないことを覚えていなくてはいけません。私たちの教会のカレンダーにそって、イエス様のご復活を毎年お祝いします...。「イエス様の御からだがかけられた十字架のイメージ」は、痛み、不安、不正、差別、そして、その他すべての不完全さを経験している私たち皆に、確かにたくさんの慰めを与えてくれるかもしれません。ただ、イエス様の十字架にかけられたお姿を見つめるだけで、私たちは皆、生きる勇気を見つけ、「私は一人ではありません。」と単純に言うことができるのです。しかしながら、ご復活徹夜祭の典礼の豊かさと同様に、ご復活の喜びに満ちたお祝いは、私たちの日々の生活にイエス様の十字架が何を伝えようとしているのか、もっと深く黙想するように招かれています。イエス様の十字架は、天の御父への(栄光への)入口のしるしなのです。イエス様がもはや十字架上にはおられないということは、私たちが今から受け入れようとしている十字架と同じく、十字架上でのさらに深い意味を与えてくれます。「もはや十字架上におられないイエス様」(復活されたキリスト)は、私たち信徒の生活の中心となるのです。
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今日の朗読では、私たちの祈りの生活や、福音を証しし福音に生きることの難しさの経験によって、私たちが栄光に入られたイエス様の生きた証人となることを理解させてくれます。私たちは、苦しみの中でも笑顔を通して証人となるのです。一度、真の笑顔となる方法を身につけた私たちは、自動的にキリスト教の世界に加わります。これは、私たちの人生の時期であり、「神の御業の日。喜び祝い、喜び躍ろう。」(詩編118)ということです。
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今日の福音朗読は、私たちの信仰生活を支える聖書の一節を定義するもののひとつと考えられます。十字架の磔はイエス様の時代によく見られたとても歴史的な出来事です。イエス様のご復活は、だれもイエス様がご復活されるところを見ていないので、信仰上の出来事です。初めに空の墓があり、それからは、すべてご復活後の話でした。私たち皆が持っているのは、空になった墓の記述と、ご復活後の記述ですが、マグダラのマリアを含むイエス様の弟子たちの行動は、死が私たちにとって最後ではないことを教えてくれます。私たちにとってすべての終わりと思われる死よりも、新しいいのちの可能性は大きなものなのです。
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パウロのコロサイへの教会への手紙は、イエス様の栄光への入口は、また私たち皆がいつも上にあるものを求めるようにと招かれている新しいいのちへの入口でもあるということを私たちにも伝えています。イエス様のご復活の恵みを受けて、私たちの回心が育ち続け、真に文字通り他の人たちも到達できますように。
ご復活をお祝いしましょう。新しいいのちをお祝いしましょう。
主任司祭 アルセ・エクソール・マグボー