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4月2日 枝の主日(A年)

マタイ1.1-11、イザヤ50:4-7、詩編22.8+9、17+18、19+20、23+24、フィリピ2.6-11、マタイ27.11-54

  私たちわたしたちは、復活ふっかつてつ夜祭やさいミサみさ洗礼せんれい受けるうける人々ひとびとのために、このじゅんせつあいだしゅじつミサみさとも祈っていのっています。私たちわたしたち洗礼せんれいについて、私たちわたしたちみないままでのじゅんせつ朗読ろうどく理解りかいしようとしました。洗礼せんれい志願者しがんしゃ方々かたがたにとっては、彼らかれらなに受け取るうけとるのかという祈りいのり満ちたみちた期待きたい溢れるあふれるものです。イエスいえすさま教えおしえから、基本的きほんてき私たちわたしたち食べ物たべものみずのような日々ひび切望せつぼうしているもの以上いじょうに、より深くふかく黙想もくそうすべきことが確かたしかにたくさんあるということを学びましたまなびました私たちわたしたちは、多分たぶん私たちわたしたち浅いあさい視覚しかく触覚しょっかく超えてこえてイエスいえすさまについての真理しんりと、常につねにイエスいえすさま知りしり、ついていくようにというイエスいえすさま招きまねきをもっとよく知るしるようにと招かれてまねかれています。

  今日(きょう)は、(えだ)(しゅ)(じつ)です。私たち(わたしたち)が、典礼(てんれい)(ねん)(なか)(さい)高潮(こうちょう)時期(じき)にいるということを理解(りかい)することが大切(たいせつ)です。今日(きょう)(えだ)祝福(しゅくふく)は、この()(じゅん)(せつ)クライマックス(くらいまっくす)へと導かれます(みちびかれます)過ぎ越し(すぎこし)神秘(しんぴ)黙想(もくそう)することは、記憶(きおく)保ち(たもち)感謝(かんしゃ)(さい)浅はか(あさはか)お祝い(おいわい)をすることではありません。私たち(わたしたち)(あく)ではなく(ぜん)選び(えらび)無関心(むかんしん)よりも(あい)選ぶ(えらぶ)ことで、私たち(わたしたち)(こころ)回心(かいしん)は、イエス(いえす)(さま)(とも)新しい(あたらしい)いのちを生きる(いきる)ことができるのです。

    (かみ)さまは、私たち(わたしたち)(みな)(あい)お与え(おあたえ)になります。(かみ)さまは、私たち(わたしたち)(とも)にいてくださることについて、ずっと私たち(わたしたち)語りかけて(かたりかけて)おられます。どんなに難しい(むずかしい)思われて(おもわれて)も、(かみ)さまの宣教(せんきょう)加わる(くわわる)勇気(ゆうき)お与え(おあたえ)くださる(かみ)さまとの関係(かんけい)保ち続けましょう(たもちつづけましょう)第一(だいいち)朗読(ろうどく)イザヤ(いざや)予言(よげん)では、(かみ)さまの豊か(ゆたか)()恵み(めぐみ)で、私たち(わたしたち)痛み(いたみ)苦しみ(くるしみ)忍耐(にんたい)することができるようになり、この世界(せかい)現実(げんじつ)(なか)で、私たち(わたしたち)は、(かみ)さまの豊か(ゆたか)お恵み(おめぐみ)で、赦し(ゆるし)憐れみ(あわれみ)(あい)良い(よい)(たね)植える(うえる)ことを選ぶ(えらぶ)ことができるようになる書かれて(かかれて)います。

    今日(きょう)朗読(ろうどく)聞き続ける(ききつづける)と、少なく(すくなく)とも二つ(ふたつ)現実(げんじつ)と、この「イエス(いえす)(さま)ご受難(ごじゅなん)()、そして、三日後(みっかご)ご復活(ごふっかつ)」の多分(たぶん)その理由(りゆう)認識(にんしき)します。

(a)  私たち(わたしたち)のまわりで日々(ひび)起こって(おこって)いることへのとても人間的(にんげんてき)判断(はんだん)同様(どうよう)に、イエス(いえす)(さま)時代(じだい)でさえも、人々(ひとびと)(あいだ)ではとても典型的(てんけいてき)憎しみ(にくしみ)偏見(へんけん)があり、そのために私たち(わたしたち)には「イエス(いえす)(さま)ご受難(ごじゅなん)()」があるのです。当時(とうじ)社会(しゃかい)において、イエス(いえす)(さま)は、文字通り(もじどおり)政治的(せいじてき)地位(ちい)への脅威(きょうい)でしたイエス(いえす)(さま)存在(そんざい)、みことば、行動(こうどう)がそうであったように、当時(とうじ)宗教的(しゅうきょうてき)権力者(けんりょくしゃ)たちへの強い(つよい)脅威(きょうい)でした。脅かされた(おびやかされた)人々(ひとびと)は、イエス(いえす)(さま)痛み(いたみ)避けられぬ(さけられぬ)()負わせなくて(おわせなくて)はならなかったのです。現在(げんざい)では、その(ひと)権力(けんりょく)対して(たいして)脅威(きょうい)思われる(おもわれる)(ひと)や、(とみ)名声(めいせい)のための果て(はて)しない野心(やしん)満たす(みたす)ことへの脅威(きょうい)思われる(おもわれる)(ひと)憎み(にくみ)友人(ゆうじん)でなくするかもしれません。ここでも、イエス(いえす)(さま)がどうして十字架(じゅうじか)にかけられたのか、多く(おおく)理由(りゆう)理解(りかい)できます。ですから、福音(ふくいん)のために迫害(はくがい)され、疎外(そがい)され、そして、差別(さべつ)されている人々(ひとびと)のために祈りましょう(いのりましょう)

(b)  私たち(わたしたち)クリスチャン(くりすちゃん)信仰(しんこう)のうちに、どんなに理解(りかい)することが難しい(むずかしい)ように見えて(みえて)も、(てん)御父(おんちち)ご意思(ごいし)従って(したがって)物事(ものごと)起こる(おこる)のです。この地上(ちじょう)においでになったイエス(いえす)(さま)のすべての(ひと)への(あい)は、(てん)御父(おんちち)無条件(むじょうけん)(あい)同じ(おなじ)です。イエス(いえす)(さま)は、ご自分(ごじぶん)愛する(あいする)人々(ひとびと)への(あい)と、回心(かいしん)のための(てき)への(あい)のために、自ら(みずから)お捧げ(おささげ)になりました。(てん)御父(おんちち)永遠(えいえん)(あい)慈しみ(いつくしみ)は、イエス(いえす)(さま)犠牲(ぎせい)通して(とおして)イエス(いえす)(さま)をもっと痛み(いたみ)苦しみ(くるしみ)にと導いた(みちびいた)脅かされた(おびやかされた)人々(ひとびと)憎しみ(にくしみ)通して(とおして)(つみ)除いて(のぞいて)私たち(わたしたち)同じ(おなじ)人間(にんげん)としてのイエス(いえす)(さま)のすべての弱さ(よわさ)通して(とおして)明らか(あきらか)にされます。

 

    イエス(いえす)(さま)ご自分(ごじぶん)()にされたことで、脅かされた(おびやかされた)人々(ひとびと)()渡された(わたされた)イエス(いえす)(さま)ご受難(ごじゅなん)と、十字架上(じゅうじかじょう)での()は、すべて本当(ほんとう)意味(いみ)のあるものとなりました。ご自分(ごじぶん)()にされたことによって、イエス(いえす)(さま)お遣(おつか)わしになった御父(おんちち)聖霊(せいれい)満たされた(みたされた)のです。ですから、日々(ひび)生活(せいかつ)(なか)で、私たち(わたしたち)もまた、どのようにして自分(じぶん)()にし、そして、どのようにして私たち(わたしたち)(こころ)(かみ)さまが統治(とうち)されるのかを学ぶ(まなぶ)のです。私たち(わたしたち)は、イエス(いえす)(さま)聖霊(せいれい)実際(じっさい)育まれる(はぐくまれる)助け(たすけ)とはならず、そして、イエス(いえす)(さま)(とも)新しい(あたらしい)いのちを生きる(いきる)助け(たすけ)とはならない多く(おおく)(こと)でいっぱいになってしまっていることに気づいて(きづいて)いないのかもしれません。

 

 

                                                                                            主任司祭 アルセ・エクソール・マグボー