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3月26日 四旬節 第5主日(A年)

エゼキエル37・12-14/ 詩編130・1+2, 5+6, 7a+8/ ローマ8・8-11/ ヨハネ11・3-7, 17, 20-27, 33b-45

()(じゅん)(せつ)第五(だいご)(しゅ)(じつ

 

 今日きょうは、じゅんせつ5だい5しゅじつです。今日きょうミサみさでは、洗礼せんれい志願者しがんしゃのための三つみっつ特別とくべつ意向いこう祈りいのりのうちの最後さいご祈りいのりがあります。せい週間しゅうかん典礼てんれい近づくちかづくにつれて、私たちわたしたちは、洗礼せんれい志願者しがんしゃとも祈り続けいのりつづけ病気びょうきその他そのた苦しみくるしみなどの現実げんじつ生活せいかつなかで、とも励ましはげまし見つけるみつけるのです。イエスいえすさまご受難ごじゅなんについて、この時期じきじゅんせつ黙想もくそうでもう少しすこし時間じかんをかけ、イエスいえすさまご復活ごふっかつが、私たちわたしたち小さなちいさな共同体きょうどうたいやそれぞれの家庭かてい、そして、今日きょう私たちわたしたち世界せかい起こっておこっている絶望的ぜつぼうてき思われるおもわれる事件じけん出来事できごとへの希望きぼうのしるしであるということを理解りかいしましょう。今日きょう福音ふくいん朗読ろうどくは、ラザロらざろからのよみがえりです。そして、イエスいえすさまは「わたし復活ふっかつであり、いのちである。」とおっしゃっておられます。

 

    第一(だいいち)朗読(ろうどく)エゼキエル(えぜきえる)予言(よげん)では、(かみ)(たみ)(はか)からよみがえらせるという(かみ)さまの意向(いこう)理由(りゆう)について書かれて(かかれて)います。それは、死人(しにん)(ほね)であふれている(たに)がよみがえったという(はなし)で、つまり、(つみ)偶像(ぐうぞう)崇拝(すうはい)のために死んだ(しんだ)イスラエル(いすらえる)が、(かみ)さまの(ちから)認識(にんしき)して、(かみ)さまのうちによみがえったということのたとえ話(たとえばなし)です。(かみ)さまの彼ら(かれら)への意向(いこう)は、(かみ)さまこそ唯一(ゆいいつ)(かみ)であることを心から(こころから)知る(しる)ことです。

 

    ラザロ(らざろ)は、(かみ)さまのうちにあって、よみがえるすべての人々(ひとびと)象徴(しょうちょう)しています。もちろん、(かれ)は、洗礼(せんれい)によって新しい(あたらしい)いのちを得る(える)すべての人々(ひとびと)をも象徴(しょうちょう)しています。私たち(わたしたち)は、(つぎ)ポイント(ぽいんと)黙想(もくそう)することができます。

(a)  洗礼(せんれい)は、新しい(あたらしい)いのちへの入口(いりぐち)であり、これは、これまでの(ふる)いいのちにおいては、救い(すくい)(ぬし)であるイエス(いえす)(さま)についての理解(りかい)がなく、新しい(あたらしい)いのちにおいては、キリスト(きりすと)(さま)(こころ)への深い(ふかい)理解(りかい)があるということを意味(いみ)しています。

(b)  日々(ひび)回心(かいしん)招かれて(まねかれて)(わたし)悔い改め(くいあらため)、そして、いのちを取り戻します(とりもどします)

(c)  イエス(いえす)(さま)弟子(でし)として静か(しずか)時間(じかん)(なか)で、(かみ)さまの永遠(えいえん)慈しみ(いつくしみ)(あい)が、(ほか)(ひと)やたくさんの場所(ばしょ)でもっと知られて(しられて)いるように、どうすれば、キリスト(きりすと)(さま)のうちにある新しい(あたらしい)いのちを、たくさんの方法(ほうほう)育んで(はぐくんで)いけるのか自分(じぶん)問いかけます(といかけます)

 

    私たち(わたしたち)(しょう)(めい)召し出し(めしだし)私たち(わたしたち)の日々の興味(きょうみ)霊的(れいてき)(こと)長く(ながく)継続(けいぞく)されていることに向けましょう(むけましょう)なぜならば、私たち(わたしたち)(みな)古い(ふるい)いのちから新しい(あたらしい)いのちへと高められ(たかめられ)私たち(わたしたち)関心(かんしん)は、もう物質的(ぶっしつてき)なものや、ブランド化(ぶらんどか)されたもの、そして、それらに似た(にた)ような多く(おおく)のものに対して(たいして)ではありません。これらのことへの執着(しゅうちゃく)は、いのちのあたえ(しゅ)であるイエス(いえす)(さま)から長く(ながく)引き離そう(ひきはなそう)とするかもしれません(・・・)この引き離そう(ひきはなそう)とすることは、イエス(いえす)(さま)によるものではなく、私たち(わたしたち)自身(じしん)生み出した(うみだした)ものです。

 

私たち(わたしたち)は、いのちのない家庭(かてい)社会(しゃかい)持つ(もつ)つもりはありません。多分(たぶん)私たち(わたしたち)自己(じこ)中心さ(ちゅうしんさ)利己(りこ)主義(しゅぎ)は、長い(ながい)(あいだ)隣人(りんじん)傷つけて(きずつけて)いて、人間(にんげん)苦しみ(くるしみ)()大い(おおい)増やして(ふやして)います。私たち(わたしたち)は、()からいのちへと高める(たかめる)ことに貢献(こうけん)していきましょう。イエス(いえす)(さま)2000(2000)(ねん)以上(いじょう)(まえ)広めて(ひろめて)くださった新しい(あたらしい)社会(しゃかい)私たち(わたしたち)(みな)受け入れる(うけいれる)よう、私たち(わたしたち)祈り続けます(いのりつづけます)憎しみ(にくしみ)無関心(むかんしん)文化(ぶんか)から立ち上がり(たちあがり)(とも)(みな)働きかけ(はたらきかけ)ましょう。私たち(わたしたち)福音(ふくいん)価値(かち)によって完全(かんぜん)生きる(いきる)ことができるよう、眠って(ねむって)いる(こころ)(いのち)取り戻しましょう(とりもどしましょう)人々(ひとびと)のいのちを取り戻す(とりもどす)ために、復活(ふっかつ)といのちであるイエス(いえす)(さま)を、もっと深く(ふかく)理解(りかい)できますように。 

 

主任司祭 アルセ・エクソール・マグボー